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第087回 ペルセポリス:今日から人は変われる

Posted by on 2020/08/16

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※今回の収録は6月下旬に行われたものです。

※今回紹介した本やお知らせは一番下にまとめてリンクつけてます。

・オープニング

ユッスー、町田に行く。

チャイ、法華経を改めて学ぶ。

・世界遺産のコーナー

ペルセポリス

イラン・イスラム共和国

文化遺産 登録年1979年

登録基準 (1)、(3)(6)

ペルセポリスは、アケメネス朝ペルシア帝国の都。ダレイオス1世(ダーラヤーウ1世)が建設した宮殿群であった。遺跡はイランのファールス州(当時の地名はパールサ地方)にある。

歴史

ダレイオス1世がペルセポリスの建設に着手したのは紀元前520年のことであった。これはダレイオス1世即位時の大反乱(詳細はアケメネス朝を参照)の鎮圧直後のことであり、当初帝国の中心として構想された都市であったといわれている。ペルセポリスはクーヒ・ラハマト(慈悲の丘)の山裾に自然の岩盤を利用して建設された。

都市の建設も、ダレイオス1世の治世からクセルクセス1世(フシャヤールシャ1世 前486年前465年)、アルタクセルクセス1世(アルタフシャサ1世 前465年前424年)の治世前半まで継続して行われており、ペルセポリスで行政活動が行われていた時期と、建設活動が行われていた時期がほぼ重なっていることがわかる。一方でこれらの行政記録から、ダレイオス1世時代から既に王がこの都市に滞在することはほとんど無かったこともしられており、帝国の中心としては圧倒的にスサの方が重要性の高い都市であった。多くの学者の説によれば、ペルセポリスの主要な用途は帝国の新年祭を執り行う場であり、諸民族からの貢納を受け取り、アケメネス朝の王権が神から与えられたことを確認する聖域であったと言われている。また、天文観測所としての機能も持っていたといわれており、暦の制定に重要な役割を持ったと考えられている。

時代を経るごとにペルセポリスが実際の政治から遠ざかっていったことは、王城内部にアルタクセルクセス2世やアルタクセルクセス3世の墓が作られていることからも推察され、更に新年祭などの儀礼行為も次第にスサやバビロンに場所を移すようになってペルセポリスでは行われなくなったと言われている。にもかかわらず、ペルセポリスはアケメネス朝の滅亡の時まで首都と見なされていた。これはアケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王に纏わる諸記録からも明らかであり、またペルセポリス攻略の際に彼は12万タラントンの黄金を手に入れている。これは彼がスサで獲得した黄金の3倍にも上る量であり、これだけの財宝が保存されていたことは、アケメネス朝最末期においてもペルセポリスが重要な都市であったことを証明する。だからこそアレクサンドロス大王もわざわざこの都市を訪れ、そして破壊していったのである。

(wikipedia)

※本編の中でペルセポリスの語源の説の一つとして「都市を焼く」と話していますが、「都市を破壊する」の間違いでした。お詫びして訂正します。

 

・ユッスーと行く、雑学の旅!

「農業のマーケティング教科書」について

 

・エンディングとメール紹介のコーナー

ハジメさん、ありがとうございます!

チャイ法華経を再度勉強している話の続き

 

・紹介した書籍とお知らせ

サンスクリット原典現代語訳 法華経(上)

法華経 2019年11月 (NHK100分de名著)

原始仏典 (ちくま学芸文庫)

行動経済学まんが ヘンテコノミクス (日本語) 単行本

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